のしごとのトップ / 珈琲焙煎屋の新しい冒険 (但馬東洋珈琲のしごと)

珈琲焙煎屋の新しい冒険

但馬東洋珈琲のしごと

但馬東洋珈琲

ちょっとレトロなCAFE DO TOYOというロゴ。
これは、東洋珈琲と呼ばれる珈琲焙煎屋さんのもので、今から50年ほど前には各地に支店を出し、その名が広く知れ渡っていました。

しかし、支店が増えていく一方で利益が取れず、遂には本店が回らなくなってしまい、各支店は独立の道を歩むことになります。

そのあと数は減ってしまったものの、各支店はそれぞれ独自の特徴を築きあげながら、今でもこの看板だけは引き継がれています。

但馬東洋珈琲株式会社

但馬東洋珈琲

その一つが兵庫県豊岡市日高町にある創業1974年の「但馬東洋珈琲株式会社」。

この会社は、主に地域の喫茶店やレストラン、オフィスや宿泊施設、各家庭に自家焙煎した珈琲を卸すとともに、それに付随した砂糖やミルクはもちろん、冷凍食品までお客さまのニーズに合わせた食品を取り扱っています。

但馬東洋珈琲はもともと、東洋珈琲の支店の一つ但馬支店でした。しかし、前述したように、本部の業績悪化により、各支店が看板を買い取り、独立してできた一つがこの但馬東洋珈琲です。

このときから51年もの間、この会社と珈琲の味を守り続けてきたのが、焙煎師であり専務取締役の小谷さん。経営全般を見ながら、75歳になったいまもなお現役で焙煎のために工場に立たれています。

但馬東洋珈琲

但馬東洋珈琲の前身となる東洋珈琲は、次々に支店を出し企業の規模を大きくしていったが、財務状況は悪化の一途を辿っていました。そこで、経理内容の精査役としてもともと銀行マンだった小谷さんに白羽の矢が立つ。

「1969年に私のいとこが神戸で東洋珈琲株式会社という珈琲屋を立ち上げ、だんだん大きくなり、あちこちに支店を出して売り上げを伸ばしていました。ところが販売ばかりに傾注しすぎていて、売上も従業員も増やす一方で、落ち着いて企業を構築できていなかったんですね。そこで、経理内容を見てやってくれと言われたのが、私が珈琲屋に入るきっかけでした」

身内とは言え銀行からやって来た小谷さんは、会社をどうにか良い方向へと進めるため、もっと売り上げに比例した利益を出すべきだと訴えかけます。しかし、その想いは伝わることはありませんでした。

そして、小谷さんが予想した通り、東洋珈琲の経営はさらに悪化へと進んでしまいました。

「銀行の借り入れで大きくなるような会社は、どこかで終止符を打たないと膨らんでしまい破城を起こすので、激しく論争したんですね。その結果、田舎の支店に帰れと言われ帰ってきたのが但馬支店でした」

「そのあと本店は心配した通りお金が苦しくなり、資金を集めるために各支店の担当者にお店を買い取って独立してくれと言いました。我々も独立できるということで渡りに船で『但馬東洋珈琲株式会社』を作ったのが今から1969年です」

但馬東洋珈琲

しかし、暖簾を買い取るには多額の借金をする必要があり、こんな会社が長く持つのか不安だったと小谷さんは当時を振り返ります。しかも、但馬東洋珈琲が焙煎する珈琲は、やや深い。その当時の主流だった浅く軽いものとは違い、営業に行ってもなかなか受け入れてもらえませんでした。

しかし、他と差別化するために自分たちが得意とする深炒りの珈琲にこだわったことが功を奏し、時代の流れとともに事業を軌道に乗せていきます。

「その当時のスタンダードは軽くて飲みやすいもので、今より頼りない珈琲でした。しかし、同じようなものでは個性が出ないということで、やや深いスタイルになりました。他のものと比べ炒りも深いですが、そのかわりコクも香りもいい。それに、深い珈琲は風味や味が長持ちするし、我々は炒りたてを持っていけるメリットもありました」

珈琲は焙煎された瞬間から徐々に劣化をしていきます。大手メーカーの珈琲は、焙煎してからお客さまの口に入るまでかなりの日にちが経ってしまっているが、地域の方をターゲットにしたここの珈琲はいつでも焙煎したての芳醇なものを提供できる。これは大手にはない強みの一つだ。

「こんな濃いものはあかんと返されたこともありましたが、気に入ってくれる人が増えてがむしゃらに売って、無理やりこれがこの地域のスタンダードだと売り込んだわけです。濃厚な珈琲を一度飲むと、母親の味と同じで他が頼りなく感じるようになります。それでだんだん理解されるようになりまして、この地域全域に行き渡りました。ある意味、戦略的には選択肢は一つしかなかったんだけど、うまく定着してくれたと思っとります」

但馬東洋珈琲

他にはない濃い珈琲にこだわった但馬東洋珈琲に、さらに追い風が吹く。それは、スターバックスの日本進出でした。

「軽い珈琲は無難ですが、インスタントとの違いが分かりにくいんです。その中で深煎りとして、シアトル系のスターバックスが流行りだしたんですね。そのとき我が意を得たりという感じがしました。それ以降、深い珈琲を売られるところが増え、軽いものではちょっと物足りない人が徐々に増えてきたと思います」

早い段階から濃さにこだわってきたこともあり、但馬東洋珈琲の看板は徐々に浸透し、ここのだからと飲んでくれるお客さまや、他の珈琲では物足りなくなったと言ってくれるファンが増えていきます。

「私たちはどんな銘柄も置いてますし、浅く煎れと言われたらやりますが、レギュラー、ブラジル70あたりはどこに出しても恥ずかしくない、一つのカテゴリを築いたと自負しています。若い人たちは東京や大阪で飲んできただろうけど、これは絶対の自信をもっています」

但馬東洋珈琲

珈琲に絶対の自信を持つ小谷さん。しかし、もともとは銀行マンだったにも関わらず、どこでそれだけの技術や知識を学んだんだろうか。

「荒っぽい話です。但馬支店は五人くらいの会社でしたが、直下焙煎機があって社員がみんな炒るんですわ。ほんでね、同じようにやるよう言われて、何回か失敗したこともあったし、最初は下手だったでしょうね。それでも手をとり足をとり、感覚的に学んでいきました」

「例えば、珈琲はずっと炒っていくといい色になってきますが、珈琲色になったらそれで終わりじゃなくて、大豆(日本豆)と比べ非常に脂肪の含有率が高いんです。上手に焼くと豆も油がぷくって浮き上がってくる。もうピカッと油が見えるんですね。それが焼きあがった一つの印です。そういうのは目が慣れないと見えませんから」

但馬東洋珈琲

こうして独立店として再スタートし、今では地域で幅広く愛されるようになった但馬東洋珈琲。本部とは別々の道を歩むことにはなったが、今でも東洋珈琲という名前を残しているのには、小谷さんたちにとって特別な想いがあるのかもしれない。

そう思わせてくれたのが、こんな話だ。

鳥取には、東洋珈琲の支店の一つ鳥取東洋珈琲があった。ここは、小谷さんとも頻繁に情報交換をする旧知の仲。しかし、今から約14年ほど前に、社長が突然の病気で意識不明となり、残った従業員だけでは続けることができず、営業がストップしてしまいました。

それによって、鳥取東洋珈琲が焙煎する豆を心待ちにするお客さんたちは、お店で珈琲が出せなくなってしまい、どうにか同じブレンドの豆が手に入らないものかと探し回り、その中の一軒のお店が但馬東洋珈琲に連絡をしました。小谷さんは、そのお店から連絡をもらって初めて、鳥取東洋珈琲がそのような状況に陥っていることを知ったと言います。

「鳥取東洋珈琲さんでお世話になっていたんですけど、同じブレンド珈琲が欲しいんです。こう言われました。どんなブレンドかも分からなかったんですが、事務員さんとコンタクトが取れるようになって、現場に行って全ての台帳を持って帰ってきまして、書かれている全ての取引先に、こちらで商品が用意できますと緊急のご案内をしたんです」

「ただ、連絡ができた時には既に半月が過ぎてまして、今更こられても悪いけどできないと8割くらいは断られました。二週間も豆がなかったら喫茶店は営業ができないので、仕方なしに違う珈琲屋にやっと味合わせをして作ってもらって再出発したところだったようです。ところが事務所や個人の方は、それならまた頼むと言ってくださって毎週運んだんです」

その時から取引が始まった鳥取のお客さまも高齢となり、徐々に数が減ってしまったので配達は隔週になったそうですが、今でも小谷さん自ら鳥取まで届けているそうです。

そこまでして珈琲を届け続けているのには、同じ東洋珈琲の名前を受け継いできたご縁や、この名前の珈琲を愛してくれた方に引き続き楽しんでもらいたいという想いが、小谷さんの中にあったのかもしれません。

その地域で最高のパフォーマンスを

但馬東洋珈琲

珈琲は、話を聞けば聞くほど奥が深い。しかし、意外なことに味は口に入れる前に既に決まっていて、味だけが良し悪しを決めるのではないと言います。

「例えば、これから喫茶店をされる方がいたら、うちの珈琲をお飲みになって多少抵抗がある方もいらっしゃるかもしれません。でも、あなた自身がうまいと思えるものより、出したお客さまが飲み干すかどうか。それが大事なんです。味は、本来ならば口の中で見ますが、それ以前に器や焙煎機を見た上でお飲みになる。だから、ある程度自信を持って売れば大概の方は買ってくださる。味というものはそういうものです」

「ただね、絶対にインスタントのようないつも同じ味は出ません。四季折々で多少変遷していきます。あくまで我々は零細珈琲焙煎屋ですから、できるだけ目の届くところで使っていただき、気配りしながら売るのも大切なことです。おかげさまで具合悪いから変えてくれってお客さまは全くなくなりましたし、万が一クレームがあっても対応する自信があります。50年やってきたわけですから。我々の生命線は、大企業で大量生産した豆ではなく、その地域で最高のパフォーマンスしたものをその地域で買っていただく。それがぼくは焙煎屋の原点だと思っています」

但馬東洋珈琲

今年、小谷さんの甥である北村さんが京都から地元にUターンし、会社を手伝い始めました。都会で働き得た豊富な経験を活かし、入社して半年足らずで次々と新しいことへ挑戦していく姿は、どのように映っているのだろう。

「もうね、私らの出る幕じゃないし、会社を発展させるなら多様性が必要です。昔流の考えを繰り返してたら会社は発展しません。これから販路を広げたり、若い層に食いついていくというようなことは私らにはとてもできることじゃないから、非常に若いし期待しとるんです」

「見てるとおもしろいですわ。そんなことするかって。ですから、昔はこうだったってことをね、言いたくなるんですけどそこそこで知らん顔してます。聞かれたことはもちろん答えますが、できるだけ仕事しやすいように出過ぎないようにしてますので、また違うカラーの珈琲の販売をやってくれるだろうなと思います」

そんな北村さんにもお話を伺ってみます。

珈琲屋、かっこいいじゃん

但馬東洋珈琲

「ファッションオタクだったんです」

白いワイシャツとベストをびしっと着こなす北村さんは、ぱっと見はどこかの喫茶店のマスターのような貫禄すら漂うが、会ってすぐに北村さんから出てきた言葉は意外なものでした。

学生時代は、好みのファッションに身を包み、周りの人たちとは違うマイノリティの道を進んでいた。しかし、この狭い世界だけでなく幅広い年齢層を対象にした対極の世界で挑戦してみたいと、大阪の大学を卒業したあと大手アパレル企業に入社する。

新卒で入ったこの企業で、さまざまな経験を積みながら最終的には京都全店を管理するエリアマネージャーを担当していた。しかし、18年間勤務したこの会社を退社し、地元である豊岡市にUターン。父親や叔父である小谷さんが働く但馬東洋珈琲に入社します。

「前職では、人を育てたり在庫を見るような立場で、最終的には京都全店舗のマネージメントをしていましたが、サラリーマンを続けるかどうかをずっと考えていました。でも、人生を真剣に考え始めるとどんどん欲が出てきてしまいました」

「ファッションの仕事も好きだし、辞める気もない。でも、もっと先の未来を考え幸せな生活をイメージした時に、ちゃんと自分の手でものを作って提供する。なにかの一部ではなく責任を持ってプロダクトを作りあげお客さまに渡す。最初から最後までやってみたいと考えた時に、珈琲屋ってかっこいいじゃんって」

自分でものを作る仕事がしたいと長年勤めた会社を辞め、2020年4月に地元に戻り、より身近にお客さまの声を活かせるこの会社に入社します。

しんどいと不幸は、比例しない

但馬東洋珈琲

但馬東洋珈琲は、長年に渡って飲食店や宿泊施設を中心に珈琲豆を卸し、個人の方への販売を積極的には行っていませんでした。

しかし、暖冬の影響でこれまで取引先のメインだったスキー場の山小屋が営業できなくなってしまったり、コロナの影響で飲食店や宿泊施設に大きな影響が及び、卸しだけでなく自分たち自身で商品を売っていけるよう、会社のイメージを刷新するブランディングが始まります。

ちょうどそこに北村さんが入社し、さらに加速を上げ会社が変わり始めています。

「入社前に珈琲のパッケージやウェブサイトのリニューアルは進んでいたのですが、リリース直前にコロナになってしまいました。落ち着きだした頃には、デザイナーさんとのやりとりも終わっていたので、パッケージの印刷発注といったデータを実物化する作業をやったり、SNSや通販を始めたり、置いてもらうお店に交渉行ったりもしました」

北村さんから渡された名刺に目をやると、肩書は課長になっているものの、午前中に事務所へ伺うと焙煎をしている姿があったかと思えば、そのあとは営業に出て行く。ウェブ周りのことや広報活動も担っており、とにかくなんでもこなす。

小さな会社に肩書はほとんど意味はなく、全てのことに関わらなければならないため、大変さもあるが最初から最後まで携われることに、大手企業では得られなかったやりがいを感じていると言います。

「大きな額をあつかう責任ある仕事でしたが、あのときの責任と今の責任はぜんぜん違うジャンルだったように思います。だから、規模は小さくなりましたが、めちゃくちゃしんどいんです。でも、やりがいはめちゃくちゃあります。自分で作ったもので、お客さまに喜んでもらえるのがいかに難しくて、いかに嬉しいかを感じられる。喜怒哀楽のふり幅は与えられて何かをするよりも当然違うので、しんどいですけど毎日が非常に楽しいです。だって、しんどいと不幸は比例しないので」

但馬東洋珈琲

長年、接客業に携わってきた北村さんは、とっても気さくで気が利く。滑らかな語り口調に関心しながら耳を傾けていると、実は人見知りな性格で今自分がさまざまなことに挑戦ができ、そして大きなやりがいを感じられているのは、先代たちが長い時間をかけて築いてきてくれた歴史と信頼のおかげだと言います。

「50年の歴史は、簡単に作れるものではないし、今はまだ先代たちの傘の下でものごとをさせてもらってる立場です。それに、自分が社長だったらビビって大きなこともできず進みも少しずつですけど、今の立場だからこそ思い切って挑戦できています」

「それに、先代たちはパソコンはできなくても、長年地元に根ざしてるので、新しいことをやりたいと言えばコネクションは非常に強く、決して安いからとかではなくて、継続的に付き合える的確な方を紹介してくれます」

京都で働いていた頃は数字ばかりを追いかけていた。しかし、地元に戻って働いて見ると、数字ではない人との付き合い方にも、初めて気づいたそうです。

「私が思うビジネスは、商品とプライスと説明文だけでは成り立ちません。誰が売るかに価値があって、ときにお金を介さず価値と信頼がお金に変わります。もちろん全くお金が発生しないことはないですが、お金を使わない経済圏があるということもこっちに帰ってきて学んだことの一つです」

「だから、京都から帰ってきた当時、中小企業だし頑張れば頑張るだけ成り上がれると思ってましたが、果たしてそれが正しいのか。そもそも信頼関係や価値が相手に伝われば、別にそんな無理しなくても豊かな生活がありえるんじゃないか、そんなことに気付かされる半年でした」

お客さまに寄り添う、地域に寄りそう

但馬東洋珈琲

但馬東洋珈琲のウェブサイトには『ビスポーク』と呼ばれるメニューが記載されている。これは、お客さまの要望を聞き、その人に合ったオリジナルブレンドをしてくれるサービスですが、あまり広くは知れ渡っていない。なぜだろう。

「お客さまの要望で豆の品種や炒り具合を変えるのですが、非常に生産性が悪くあまり表だってはしていなかったんです。だから、一般のお客さまの場合、まずうちの珈琲の幅を知っていただき、淹れ方や豆の引き方を確認し、それでも納得いかなくてうちに来ていただける場合にお作りしています」

「オーダーメードと聞くとすごくいい感じがしますが、良し悪しや種類を知らないと非常にちぐはぐになり、かえってお客さまを損させてしまいます。ある程度こだわりがあり方向性が分かってらっしゃると、無茶のない選択ができると思います。だから提案させてもらうのはベーシックな中の組み合わせの妙を提供したいと思っているので、少し敷居を気持ち高くさせていただいています」

但馬東洋珈琲

ビスポークは、単純に要望を聞きそのまま好みの珈琲を作るのではない。味を変えることだけが正解ではないからこそ、しっかりとヒアリングをした上で最適な提案をする。非常にお客さまに寄り添ったサービスになっています。

「工場を見てもらうと分かるように、数値一つで簡単にできるものではなく、こまめにやっていてもたまにブレることもあって、その振れ幅を人の手でコントロールしていて、そこに何かしら見えない価値があると思っています」

「だからこそ洋服のオーダーメードのように、メジャーを持ってお客さまと語らいながら作るという作業が、珈琲豆のブレンドでも同じく大切なことです」

初の試みが始まる

但馬東洋珈琲

但馬東洋珈琲は、北村さんを中心に2021年4月20日に初となるカフェを出店する。舞台となる場所は、世界的な冒険家である『植村直己冒険館』の中。

兵庫県豊岡市日高町にある植村直己冒険館は、植村直己さんの遺品や記念品、写真が中心に展示されてきましたが、新たな体験施設を整備するために、大規模なリニューアル工事を行っています。

完成すれば、これからの子どもたちの挑戦する心を育む新しい場として、クライミングウォールやツリーイングができるとともに、寝袋での宿泊体験や火おこし体験といったさまざまなアクティビティが体験できる施設が誕生します。

「冒険館のある神鍋(かんなべ)高原は、降雪量が減りスキーに頼れないので、雪を降らせたスノーパークやホテルが今後できる予定です。そうなれば、温泉がありキャンプもできてホテルもある。雪で遊べて、あわよくばスキーもできる。そんな神鍋全てのアクセスの入口が冒険館になればと思っています」

但馬東洋珈琲

1994年に開館した植村直己冒険館の来場者数は減少傾向にあり、そこに追い打ちをかけるようにコロナでさらに厳しい状況に追い込まれました。

しかし、神鍋高原はキャンプ需要の増加で認知度が上がったとともに、自動車道が繋がったことで神戸や大阪といった都会からのアクセスが向上し、高原自体の人気は確実に上がっており、週末ともなればキャンプサイトはほぼ満員が続き、非常にチャンスの大きな場所になりつつある。

そこで、この新しい施設の一角にあった図書室と事務所を改修し、冒険館に併設したカフェを作る話が持ちあがり挑戦することとなった。

「これまで冒険館は、植村直己さんのファンの方が中心でしたが、今後は3~4歳くらいのお子さんがいるニューファミリー層も対象に、幅広い世代の方が憩える場所を目指しています。都会からキャンプで遊びに来た方はもちろんですが、そういった方だけでなく地元の方にも楽しんでもらえたらと思っています」

但馬東洋珈琲

植村直己冒険館のリニューアルオープンに向け、動き始めた初のカフェプロジェクト。

目まぐるしく変わり続けるこの世界に立ち向かうべく、会社は今後どのような方向に進んでいくのでしょうか。

「本来やってきた食品と珈琲の卸は、地域の観光が活性化した上でのうち数字なので、一番の課題はやはり地域の活性化になります。でも、それは自分たちだけでどうにかできるものではないので、いま取り組んでいるカフェや通販といった新しいプロジェクトをしっかりと軌道に乗せていきたいと思っています」

但馬東洋珈琲

但馬東洋珈琲の豆の種類は、51年の長い歴史の中でたったの5つしかない。そんな長年守り続けられてきた大切な味がこの5つには込められているが、変わらない味とともに会社は大きな変化をしようと舵を切り始めています。

今、地域に愛されてきた焙煎屋の新しい冒険が始まろうとしている。

 

 

撮影:だしフォト

(2020.12.15)

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