のしごとのトップ / 日常から生み出す作品 (美藤圭のしごと)
進むべき道は、自分で決められる。
それなのに、いつのまにか道筋を作ってしまい、そこに沿って進もうと、もがいている人はいないだろうか。ふと立ち止まり、辞めてみるのも手だろう。
そこから思いもよらない世界が広がるかもしれないのだから。
もし、歩んでいる道にモヤモヤしているとしたら、これから紹介する彫刻家のお話を読み進めてみてください。
兵庫県の北部、日本海のそばに位置する豊岡市。
市役所のある豊岡駅を降りると、目の前には大開通りと呼ばれる通りが真っすぐに伸びており、そこには約150のお店が並ぶ商店街がある。シャッターが閉まっているところも多いが、昔ながらのお店が今も営業を続けています。
駅から商店街の端のあたりまで歩き少し脇道に入ると、古民家をリノベーションして生まれ変わった『& gallery(アンドギャラリー)』が、2018年にオープンした。
ここは、彫刻家である美藤 圭くんが立ち上げたギャラリー兼住居。結婚を機に築90年を越す物件を借り、建物の良さを残しながらリノベーションを行いました。
縦長の建物は、奥が住居で手前がギャラリーになっている。ギャラリーでありながらもどこか懐かしさと温かみがあるのは、昔の建物の名残があるからだろう。
自身の作品展示はもちろん、イベントなども随時開催している。
入口の扉をガラガラっと開けると、最初に目に入ってきた小窓。
ギャラリーの象徴とも言えるこの窓は、小児科診療所だった名残だと聞いて、あぁなるほど、と思わず声が出てしまう。
「これありきで借りたいと思った」と美藤くんが話すように、この物件を借りる決め手だった。
物件を借りるにあたっての条件は、改修工事ができる古民家であること。しかし、こういった条件の物件は、不動産屋さんで取り扱いがほとんどない。
そこで、地元の建設事務所に紹介してもらったのがここ。屋根が落ちかけ雨漏りもしていたが、実際に中を見てみると会計やお薬の受け渡しが行われていたこの小窓を気に入り、残せるところは残す形でリノベーションを行いました。
美藤くんと会うのは、ここ最近で3度目。
実は、展示会の前にこのギャラリーで、そして東京のギャラリーで会っている。どちらもちょうどテレビの撮影が入っていて、とても慌ただしい時期だった。
年に一度の展示を終え、撮影もひと段落してホッとしたのか、少し眠そうな顔をしている。
「展示が近づくにつれ苦しい部分はあるけど、展示が終わったから今は一番らくなとき。作品も楽しんで作れてるかな」と、良い意味で気が抜けリラックスしている。
でも、作品と同様に口から出てくる言葉には、ひとつひとつ力強さがある。最近では、地道に続けてきた活動が少しずつ実を結び、徐々にメディア露出も増えてきているのも頷けるが、注目され始めていることについて、本人自身はどう感じているか率直に聞いてみた。
「メディアの取材を受けると、すごい人として描こうとするけど、寝るのも一人でいるのもめっちゃ好きで、そこそこ堕落した生活が好き。でもちゃんと本気出したら通用するってことを言いたいんだけど、これまでの成果や評価を書かれることが多くて。それは追いかけてたら分かることだから、日常を生きていてでもその人が彫刻をやってることを一番に伝えたい」
世界を目指して戦う姿も、のんびりと暮らす姿も、どちらもありのまま。作品には、そんな当たり前の日常が切り取られているからこそ、多くの人が魅了されているのかもしれない。
せっかくだから、彫刻家を目指した経緯はもちろんだけど、普段考えていることやこれからのことを、じっくり聞いてみようと思う。
彫刻家である美藤くんは、もともと家具職人を志望し、岐阜県飛騨高山にある専門学校に進んだ。
田舎町で生まれ育ったごく普通の高校生が、家具に魅力を感じるきっかけってなんだったんだろう。
「もう完全にミーハーでモテるから(笑)。ぼくらの世代って、BOONやSmartといったファッション雑誌が流行ってて、俺の部屋改造みたいな特集でビンテージ家具の直し方がよく載ってて、かっこいい兄ちゃんの肩書がデザイナーとか家具職人になってて、これはモテるなって」
動機は単純だった。
でも、美藤くんの家庭は、家具は基本的に買ってもらえなかった代わりに、身近に材料や道具が揃っていた。大人になってから困らないよう、欲しいものは身の回りにあるもので作れるようストイックに育てられたおかげで、ギャラリーに置いてある机や椅子も、ほとんど自分で作ったものだ。
「親父が鉄工所に勤めていて、家をある程度自分で作って建てたから、机が欲しくても買ってもらえなかったの。材料と道具が渡されて泣く泣く作ってたから、基本的に家具は買うものじゃなくて作るもの。それがあるからあんまり家具を作ることに抵抗はなくて」
子どもの頃からものづくりに触れて育ち、そして専門学校で本格的に家具作りを学ぶ。
ある意味、自然な流れだけど、卒業後に選んだ道は家具職人ではなく、名古屋にある内装設計の会社だった。
「専門学校の先生が内装出身で、当時は空間と家具を同時にやるのがカッコよくて入ったんだけど、物が作れていないことがすごいフラストレーションで、我慢できず一年半で挫折。一旦は地元に帰ったけど、やっぱり木工がやりたくて高山の小さな工房に弟子入りしました」
再び岐阜に戻り、ようやく家具が作れる環境に身を置くことができた。
しかし、やりがいと引き換えに給料はあまりにも低かった。お金が溜まらなければ機械も道具も揃えられないので、将来の独立を考え転職をする。
「いい環境だったけど、給料が月8万しかなくて。でも、いろんな仕事ができたし、わりと任されたから不思議と一番充実してた。でも、ぜんぜんお金は溜まらなくて、機械を揃えられるように家具メーカーに行きました」
「メーカーで働き始めたら、休日出勤と残業をすると月28万くらいもらえたんですよ。充実した仕事をしても8万しかもらえないのと、ライン作業で28万ももらえたことで、仕事に対する価値観がガラッと変わり、お金と心のモチベーションのつり合いが取れないとやっぱり楽しくないなって」
メーカーで4年ほど働いた後、本格的に地元である豊岡市で家具職人として働くために、29歳でUターン。2B鉛筆でイメージを描くことから『2B works(ニービーワークス)』という屋号を立ち上げ、独立します。
メーカーで技術や知識を学びながらコツコツと機械を買い揃え、地元に戻ってきていよいよ家具職人として華々しくデビューする。
そのはずだった。
しかし、家具の本場である飛騨高山とは違い、家具作りの土台がない地元では、考えていたようにはうまくいかない。
「地元に戻ってから椅子の試作なんかをしてたけど、岐阜ならすぐそこに機械屋さん、刃物屋さん、木材屋さんがあって、家具を発表する場も、東京へのルートもちゃんとあったけど、こっちだと土台がない。木材の仕入れも大阪や京都までいく必要があって、土台がなさすぎて大変で」
「だから、岐阜の友達の下請け仕事を最初はやってたけど、売上があってもこれで食っていくのは、搬送や仕入れを考えるとコストが高すぎて、すごい無理してるなと」
そんなときに出会ったのが『彫刻』だ。
メーカーで働いていた頃から、家具一本で勝負するには自信がなかった。そこで、彫刻を趣味で始め、少しずつ展示会にも出していたが、地元の彫刻家の工房を見学に行ったり、近所の方から囲炉裏に鍋を吊るす自在鉤(じざいかぎ)の制作を頼まれたことをきっかけに、本格的に彫刻制作を始める。
そして、そのうち一人のお客さまからオーダーいただいた作品が大きな反響を呼び、注文が増えていきます。
「写真家の方のオーダーで作ったフレンチブルドックが雑誌に掲載され、だんだんとオーダーが増えてこれで食べていけるじゃんって。気づいたら家具は全くやってなくて、諦めがついた。親にお金を出してもらって地元を出て、ずっと高山で修行してたから、家具をやらなくてはならないみたいなことに縛られてたけど、彫刻が軌道に乗り始めて抜け出せる口実ができた」
「今だから思うけど、企画や設計といった組み立てが苦手で。彫刻は設計図いらなくて、資料と画像をどんどん頭にぶち込んでいけばできるから、図面を描いてお客さまを納得させてから望むことをしなくていいとなった瞬間こっちの方が楽しいなって」
とは言え、長年目指してきた家具職人の道。
未練はないのだろうか。
「好きなものとかおもしろいことならやるかもだけど、がつがつラインにのせて売り込むことには興味がなくなっちゃって。家具は、寸法やある程度寄り添わないといけない前提があって、それに疲れてたときに彫刻がついてきて、こっちの方がいいなって」
「企画とか設計がまるでないものが自分の中からでてくると、全部が自分本位だから良いも悪いもないし、いつ売れるのかは分からない。けど、受け入れられることでお金に変わるのは、やったことに対しての答えでしかないから、それで生活するのは本能に近くて、今はわりと自然に仕事ができてます」
& galleryは、基本的にアポイント制。常時オープンはしていない。
でも、開いていなかったとしても、ギャラリーの前を通った方は、ガラス扉からそっと中を覗いてみてほしい。
「ここは商売として考えていなくて、買う買わないというよりは、啓蒙の為にやってる感じです。保育園がすぐそこにあるので、行きかえりでパッと目に入るよう窓際に何点か置いて、一週間に一回変えたりとか、オーダーで作ったら送る前にここに展示したり」
「内側のテーマは、彫刻で食ってたおっさんがいたはず。みたいなのを脳裏に刷り込ませたくて。子どもたちが大人になって職業を選ぶときに、彫刻で食ってたやつがいたって思いだしてもらえたら、生き方についてもう少し柔軟に考えられるかなって」
作品は、全て日常からインスピレーションを受けて作られる。その日食べたものや見た景色、感じたこと。だから、どこで暮らすかどんな生活を送るかにも大きく左右される。
地元で暮らすようになってよかったことってありますか?
「都会に比べれば平然としてられる。例えば、誰かに遭遇する可能性も少ないから、フラッと出ていくのも緊張感がなくて、自分を律するにはいいなって。だらけるときはだらけてていいし、人口が少ないのもあって比べたりもあんまりなくていいなって」
「日向ぼっこしてるおばちゃんもいればバリバリ働いてる人もいる。この町はちょうどいい密度。都会じゃないけど、田舎ほど人の目を気にしなくていい。住み始めて思ったのは、好きにしたら?って感じで誰も止めない」
作品はどういう人に見てもらいたいですか?
「作品は調律するものだと思っていて、メッセージ性がすごいあるわけじゃないし、誰かに明確に伝えたいことも実はそんなにない。座るとか物を置くとか、生活のものは用途が必ずあるけど、あるとしたら調律器具というか」
「でも、その人なりの解釈があって、買う買わないは別としてそこにしばらく滞在してちょっと考え込んだり、解放されるみたいな自分を調律するものを作ってる感覚はずっとある。対峙して整ったり解放されたりするためのもので、誰かのもとに届くとか、どこかに置かれることが望むところだから、共存できると思ったら家に持って帰ってもらえたら」
作品の価格は、数千円のものもあれば、数百万円のものもあって非常に幅が広い。自由に決めることができるからこそ迷ってしまいそうだけど、どうやって決めているんだろう。
「もう価格で悩まなくなりました。自分の感覚で買えるかどうかでずっと判断してきたけど、自分の価値観なんてすごいちっぽけなんですよ。いいと思ったら買って行く人はいるし、それを届けるためにプロモーションしてくれる人がいて、場所がある。一人でその金額は動いてないと思ったときに、みんなちゃんとWin-Winになるような価格設定にしなきゃいけないなと思う」
大きな作品には、それなりの価格が設定されている。それを高いと感じるか安いと感じるかはその人次第だが、それだけだと一部の人しか手が届かなくなってしまう。しかし、日常からインスピレーションを受けて作る美藤くんにとって、誰もが手が届くものがある。これがとても大切なことだ。
「受け入れてもらえないならいいやと思えるようになったかな。ただ、手が届かない人になることにわだかまりがあって。だから、日常と切り離さない値段のものも持っておこうと思って、『あふろらいおん』という作品は、アートが日常とかけ離れない手に取りやすい価格にしています」
「関係ない人になっちゃうのは良くないので、世界に出てもこれがあったらまだ繋がれる。日常と繋がっていないと自分はものづくりができないし、それを崩してまで作りたいとも思ってないから、広く知ってもらえる人になって、でも日常と繋がりながら田舎でやってるってことが一番シンプルな答え」
ギャラリーから車で15分ほど走ったところにある、工房にも案内してもらった。
豊岡の市内からは少し離れ、川を越え山の方に向かっていくと、お店も住宅もほとんどない静かな場所に着く。自宅から仕事モードへ気持ちを切り替えるには、ちょうどいい距離感だ。
工房の隣には実家があり、作業をしているとお父さんやお母さんが覗いてくることもあって、息子の活躍を一番に喜んでるのはお二人かもしれない。
「今年になってテレビが入ったこともあるけど、だいぶ半信半疑はなくなりました。そんなの偶然だとか、発想なんていつか枯渇するんじゃないかと心配されてたけど、ようやくまあまあやってるなって感じになりました」
もともと別の場所に工房を借りる予定だったけど、実家に戻ってくる前から納屋だったこの場所を片付け、工房として使えるようにしてくれたのはお父さんだったそう。
工房には、大きな機械はもちろん、小さな道具や材料が所せましと並ぶ。
小さな作品だと二日、大きな作品ともなれば二カ月は制作に費やし、その間ほとんどの時間をここで過ごす。
現在は、インターネットから小さな作品のオーダーを受けながら、岡山と東京で毎年行われる年二回の展示会に合わせ作品を作っていくのが、主な流れになっている。
「春の岡山展に小さな作品や今年のざっくりとしたコンセプトを作って行き、方向性に間違いがないかとか、シフトチェンジしようみたいなのを俯瞰的に見て固めていき、秋にある東京の個展に向けて大きな作品を作ります」
「大きな作品は、集中するために基本的にオーダーはストップ。二カ月仕事を空けるのも大変だし、収入がないのもしんどいけど、数百万の売上があるから本気のものを出さないと嘘になるし、安全圏の人間ではいられなくなる。お客さんに勝負しにいくわけだから、すれすれのここまでやったってものを出さないと買ってもらえない気がする」
カン、カン、カン。
心地よいノミの音が静かな工房に響き渡ると、少し眠そうだった表情がすっと引き締まって緊張感が走る。
恐る恐る声をかけてこんなことを聞いてみる。
作品を作っているあいだは何を考えていますか?
「小さな情報を妄想で膨らませて、もしものことをいっぱい考えるのが楽しくて、そんなことを考えてるかな。自分にないものや得た情報以上のものが出てくるから、起こりうることをリアルに考えるとほんとに起こる気がするし、どこかで絶対かかわってくる」
「ざっくりのことは、評価が得られたらめっちゃ喜べるけど、設計図を立てたことはその通りかどうか比較があるからあんまり喜べないんですよ。しっかり設計したからその通りになっただけの話。なにごともざっくりだと素直に喜べるし、ある程度の道筋だけなら変なところで繋がり、違う広がり方をすると思う」
ノミを叩き少しずつ掘っていくことで、一本の楠(くすのき)が徐々に作品へと姿を変えていく。
設計図もなしに数カ月も作品と向き合い続けていると、正解かどうか分からなくなってしまいそうだが、完成だと思う瞬間ってどこなんだろう。
「きっちりと完成だとは思ってなくて。最後の工程に目を入れることが多いんだけど、着色に入るまでに完璧に立体をノミで仕上げて、色を塗ったら後戻りできないよって自分に言い聞かせてから着色して完成する。だから、8割は彫刻で決まってる」
「たぶん最初に決めすぎたり、図面があると比べるから終われないと思う。比較対象がなければ気になったら足していけばいいし、ざっくりとしか見てないからこそ、いいじゃんって。それに近づいていくことを快感にしていったらいいのかなって」
彫刻で生きていくことを選んだ今、不安はないですか?
「一度家具を捨ててるからなくなった。案外道筋って持ちすぎてるから立てなきゃいけないけど、逆にないと予定の立てようがないから、本質的に何をしたいかどう生きたいかは、それを捨てた上で考えた方がいいと思う。感覚的でも一度捨ててみたら大事かどうかが分かるはず」
今は迷いなく彫刻の道を歩む美藤くんも、若い頃には働き方で悩んだ時期もあった。
朝が苦手でメーカーで働いていた頃は、何度も寝坊をして怒られ、それでも起きることができず、それならばどう生きていけばいいのかを考え選んだのが、今の働き方だ。
「疲れてると朝起きれなくて、上司にいくら説明しても理解してもらえず、基本的に社会にはあまり適合できなかった。挽回するためにいくら成果をあげても、社会に適合してるかどうかで会社員は選別されるから、起きれないやつは頼りにできないし、仕事を与えられないと言われて、世の中そういうものかって。でも間違いではないんだよね。じゃあどう生きたらいいかを考えたら今が一番合ってる」
「だから、やる気が出なかったら、朝から映画館行って昼はダラダラ寝てることもあるし、寒くなったら布団から出られないこともある。けど、そいつが世界で戦ってたらかっこいいじゃんってことを俺はやりたい。遊ぶようにやってる人がかっこいいと思ってるから」
豊岡の田舎で作品を作る美藤くんに、東京で展示をする機会をくれたのは『NUAGE(ニュアージュ)』と呼ばれるギャラリー。
彫刻は趣味だった6年前。メーカーで働きながら有給を取得し、リュックに作品とポートフォリオを詰め込み、都内のギャラリーを営業して回っていた頃に出会った大切な場所だ。
「営業は銀座が多かったけど、宿が浅草のあたりで周辺にあるギャラリーを探したら、ここが引っかかったんです。そしたら、NUAGEは雲って意味で、雲をテーマに作品を作ってますと伝えたのが最初」
「ただ、その頃はギャラリーのメインが器だったから、印象としてはあまり手ごたえがなかったんだけど、半年くらいしてグループ展があるから出してみますか?って声をかけてもらって、そこから付き合いがスタートしました」
展示期間中、美藤くんのそばにはNUAGEの代表である厚川さんの姿があった。
東京で展示をしたからといって必ずしも売れるものではなく、最初の頃は売れないことに凹んだりもしたが、厚川さんからの言葉にいつも勇気をもらっていると言います。
「売れないと凹みますって話をしたら、100人見てるかもしれないけど1,000人には見られてないから、評価としてはまだすごく狭い。自分がいいかどうかじゃなくて、1,000人に見てもらった上で判断したら?って言われて、確かにそうだなって」
「それこそ、いつも来てくれてる方が、今年真っ先に選んで決めてくれたのは、2017年の作品で。やっぱりそのときの心情でしか選べないものはあるし、正解かどうかは自分で判断するものではなくて。出し続けているうちに誰かに届いていいと思って買ってくれる人がいたら、それはその人にとっての正解だから自分で判断するのは、物を作る人間としてはもったいないなと」
NUAGEとの出会いをきっかけに、渋谷パルコをはじめ東京のいくつかの場所に作品が展示され、多くの人の目に触れるようになってきた。
こうして少しずつ作品は広がり、ファンは海を越え海外にまで及ぶ。インタビューの中でも「海外に出ていきたい」という言葉が何度も出てきたが、美藤くんの頭の中には、既に海外での展示を妄想しているのかもしれない。
海外を意識するのには、何か理由があるんだろうか。
「かっこいいなと思って(笑)海外にわざわざ出てるやつが豊岡で作ってるそのギャップがおもしろいのと、アーティストを職業として見るためには、やっぱり海外まで行ってないと」
「だからどこかの国に興味があるわけじゃないし、お金払ったらぶっちゃけどこでもできるので、わざわざ呼ばれて展示できたらすごいかっこいいなって思うし、そのためにいっぱい種を蒔いてる。作ってきたものが、ここでやってくださいと招待されるのは幸せだなって」
人は、知らず知らずのうちに道筋を立ててしまっている。
でも、道筋を決めずに進んでみたらどうだろう。そこから思いもよらなかったきっかけが生まれるかもしれない。
家具職人から彫刻家へと転身した、美藤くんのように。
撮影:だしフォト