のしごとのトップ / 久留米絣の織元から一貫生産へ (宮田織物のしごと)
宮田織物は、1913年に久留米絣の工房として福岡県筑後市で創業。昭和40年に『わた入れはんてん』の生産を開始すると、最盛期には年間で50万枚もの生産量がありました。他社の追従を許さない高品質なはんてん、独自の生地を使った婦人服ブランドの展開ができるのは、糸選びから、織り、デザイン、そして縫製や販売までを自社生産するこだわったものづくりがあってこそ。時代とともに変化し、進化を続ける織物メーカーです。
宮田織物は、1958年に宮田 智さんが、社長として長きに渡りこの会社を先導してきました。その後、5年前に社長を退任され、娘である吉開 ひとみさんに代を引き継ぎ、現在は一線を退いたものの会長として今でも会社を見守られています。
まずは、宮田織物の現会長と現社長のお二人にお話を伺いました。宮田会長は、毎朝一度は会社に顔を出すことが日課。今回の取材も、ちょうどそんなタイミングでお話を伺うことができました。
宮田織物は、1959年頃までは久留米絣(かすり)のはた屋でした。
久留米絣というのは、先に糸を縛り染めておき、たて糸とよこ糸の組み合わせによって模様を生み出す伝統的な手法のことです。この地域では昔から受け継がれてきましたが、絣は非常に手間がかかることで商品が高額になってしまったり、安価な既製品が大量に出てきてしまったことで、人気が落ち込みはじめました。
そのような流れに対抗して、久留米絣を織る織元も徐々に新しい織機を導入しはじめるところが増え、宮田織物もその一つでした。
「戦前は普段着・仕事着で、戦後どんどん洋装化して和服は着なくなるもんですから、絣がどんどん需要が減ってきました。絣は小幅で37cm前後ですから洋装化しにくく、絣の広幅化を盛んに言われましたが、なかなか技術的に難しい。それでも、久留米はゴム産地で大きな会社が工業用の資材を求めるので、広幅化しておけば需要があると考えたわけです」
そこで宮田会長は、1958年に37~39cmの小幅のシャトル織機での久留米絣の製造に加え、120~150cmの広幅織物のレピア織機と呼ばれる最新鋭の機械を導入し、もんぺなどの作業着も手掛けはじめました。
「でも、生地を織って提供するだけでは利益があまりないわけです。それで何か売れるものを製品化しないといかんと、生地を活かす方法がないかと考えた時に『わた入れはんてん』が目につきまして、1965年頃から体制を整えてうちの生地を使って始めました」
こうして製造を開始したわた入れはんてんは、最盛期である1981年には業界全体でおよそ200万枚。それに対し宮田織物だけでも53万枚で、生産数は日本一を誇るまでになりました。
「1973年に第一次オイルショックで省エネが言われ需要に火がついてずっと続いていったんです。第二次オイルショックが1978年で、それからまた10年くらいは売れ続けました」
「どんどん売れるもんだから年中作るようになって、梅雨明けから作り始めないといかんけど、梅雨は湿気がありますからね。倉庫も一階じゃなくて湿気の少ない二階に全部置くようにして、一年中わた入れだけですからね大変でしたよ。ようできたなって思います」
最盛期の1日の生産数は2000枚以上。とじを行う内職さんは、平均して1人あたり1日2~3枚の今と比べ平均5枚のペース。およそ500人ほどの内職さんを抱えていたそうです。
「広幅で織れる生地を作りましたから、品物がいいっちゅうて定評になって、問屋さんがどんどん売ってくれたんです。ところがよその問屋さんも負けじと宮田織物がそげん売りよるなら作ろうと、直接売り始めたわけです。見た目にはあんまり分かりませんから、安くてどんどん作って売れとったんです」
しかし、好調だったわた入れはんてんも、昭和の終わり頃から徐々に売り上げが落ちはじめ、今では2万枚を切るまでに減少。はんてん組合に加盟している工場も、わずか4社になってしまったといいます。
はんてんの需要が減ってきた理由は、キルティングやフリース、ダウンといったはんてんに代わる防寒着が海外から一気に入ってきたということ。そして、住宅環境が良くなったことや暖冬の影響であまり寒くなくなったこと、縫製が中国へ移り逆輸入をして安く売るところがあらわれ、価格破壊が起こったことでした。
「それまでは、安いけれどそれなりに保ってた価格がどんどん落ちました。中綿も手とじもでき上がりからは見えませんでしょ。うちは、その中でも高くて取引先さんから、そこの質を落として一年持てばいいので、宮田さんも値段を下げてくださいと言われました」
「値段の競争は、目に見えんところで手を抜くやり方が一番手っ取り早い。だから見た目には分からんでも品物が悪くなる。そういうものづくりはもうちょっとってのが私の気持ちでした。やっぱりものづくりメーカーとしてのプライドというのは大げさだけど、そんな気持ちがあってですね。そんなお粗末なものは作らないって方針に変えたんです」
これまでのわた入れはんてんは、綿にこだわらず発色や丈夫さを重視し、アクリル100%の生地やポリエステルの割合が多い安価なものを作っていました。
しかし、既存のやり方では再び価格競争に巻き込まれてしまう。そこで宮田会長は大きな転換に踏み出します。
それは、生地織りからデザイン、縫製までを一貫生産することで、素材にこだわったわた入れはんてんの高品質化でした。
「バブル崩壊でガタっと落ちて、1年に売り上げ2割減ちゅうようなことになって。それでうちは品質を主体にしっかりしたものを作らないかん。わたの質は見えないから質を落とすようなことは簡単にできるわけですね。だけど、わた入れちゅうのは、わたが生命ですからね」
表地を差別化してデザイン化するために綿タイプにし、ふっくらした上で暖かさがあり長持ちする混率を考えてできたはんてんは、最盛期に作っていたものとは、比べ物にならないものになりました。
「わたも種類がいろいろあるんです。再生綿からくず綿など、そういうものを昔からの綿屋さんは上手に乾燥して、立派な綿に見えるようにする。技術面は優れてるけど本質的な質が悪いもんだからちょっと使えばもうだめになります」
「うちが綿を入れた時はふかふかしとるけど、繊維がへたっとる綿ですから、湿気を吸うとわたが入っとるんかと思うくらい背中の方はすぐにぴしゃっとなってしまいます。これはいかんばいちゅうて、うちは背中に二枚、足し綿をしよったんです。そういうところまでせんところはそれなりです」
さらに、わた入れはんてんの価格が下落していくことで、綿屋もコストが見合わなくなり、最終的に廃業していくところがでてきました。そこで、宮田織物が廃業した工場の機械を買い取り、自社でわたの製造まで行うようになり、独自に研究をした結果、綿80%ポリエステル20%という、わたの割合が多いオリジナルブレンドを確立しました。
2013年に4代目として代を引き継いた吉開社長は、20歳で宮田織物へ入社。その頃はまさにはんてんが好調な時代だったといいます。
「ちょうど私が入った時に、テキスタイルデザインという機械ができたのが走りだったんです。会長が取り入れてみようと機械を購入して、担当になったのが入社した最初の仕事でした」
「その頃は、赤や黄色や青のカラフルで昔ながらのわた入れはんてんでした。価格も3~4000円の安いイメージでずっと来ていて、どちらかというとちょっとださめの普段着で、お母さんやおばあちゃんが夜なべで作ってくれるみたいなイメージが強かったと思います」
そんな吉開社長が力を入れているのが、原点回帰を掲げて1998年からスタートした自身も愛用する婦人服ブランドです。
高品質化したわた入れはんてんは、どうしてもこれまでのものよりも高くなってしまいます。さらに寒い時期にしか売れない季節商品ということもあり、その他の時期をカバーできるものとして考えられたのが、原点であった久留米絣を活かしたブランドの立ち上げでした。
「やっぱり今までの倍くらいの値段がするので、わた入れも作りながらエプロンなどのワンマイルウエアというのを作り始めたんですね。でも、すぐ中国製品に真似されるわけですよ。それで会長がここはもう原点に帰って、地盤の久留米絣を活かそうと」
「でも、久留米絣をそのままやったのでは以前の繰り返しになってしまいます。そんな時にお客さまの声で『久留米絣の服って好きだけどちょっと高くて手が出ないわ』って声があったんです。じゃあ久留米絣も部分的に使い、うちの広幅織物で組み合わせで作れば久留米絣テイストの着やすい価格の服ができるのではないかと始めたのが『彩藍(さいあい)』というブランドなんです」
平成10年から始まり今では基幹ブランドとなった彩藍に使われる素材は、和木綿(わもめん)と呼ばれる久留米絣の流れを汲む、宮田織物が平成元年から織り続けている素材です。どこか懐かしくでも新しい天然素材で、わた入れはんてんにも使われています。そして、この素材が評判になったことで、この素材を使ったブランドとして始まったのが『らしか』です。
近年は、若い方たちが中心となり、わた入れはんてんをさらにアップデート。
長年続いた胸囲がゆったりとした、昔ながらのわた入れはんてんの型を見直し、袖下をカットしたフィット型にすることで男女共通サイズに、素材・色・柄・デザインを少しモダンに仕上げることで、幅広い年代の方が着れるようにと作ったのが「和モダン」シリーズ。
さらに、通常のわた入れはんてんが綿80%、ポリエステル20%の混紡の中わたを使用しており、ポリエステルが20%入ることで布団のようなふっくらとした仕上がりになる一方で、服としては膨らみがあるので、厚みを抑えすっきりとしたシルエットながら保温性もある綿100%で作る「粋シリーズ」ができました。
こうした新しい製品が次々と生み出されるのは、宮田織物が生地織り、裁断、縫製、わた入れ、とじまでを一貫生産しているから。完全オリジナルの生地を使い、独自の型で服作りができます。
婦人服ブランドの立ち上げや、一貫生産による高品質化で昔ながらのわた入れはんてんのイメージの刷新を行い、時代とともに変わってきた宮田織物。しかし、正直なものづくりは今も昔も変わず、こんなお客さんに着てもらいたいという想いがあります。
「わた入れはんてんに限らず、うちの服はやっぱり何年も着てほしいんです。例えば、季節が変わってタンスを開けた時、この服が今年も着れるなって。寒くなるのが楽しみになっていただきたいのがうちの服作りなんです。ですから一年で捨てるのではなくて、一緒に服とともに歳を重ねていくような着方をしてほしいと思っています」
「インターネットの通販には、お客さまの声というアンケートを製品と一緒に入れていて、すごくうれしいことを書いてくださるんです。自分はずっとおばあちゃんのお手製のはんてんを着ていて、とうとうボロボロになったので、インターネットではんてんを探して注文してみたら、おばあちゃんのはんてんだと思ったという感想には感動しました」
一度手にした方がその後長く愛用してくれるのは品質だけでなく、はんてんが機能製品だという点も大きいそうです。
「はんてんは、わたが主ですからわりと機能製品なんです。わたは汗を吸ってまた放出することで気化熱を奪うから涼しくなるというのが一つあります。そして冬は、繊維の中に空気を溜めて暖かいんです。ダウンなどはポリエステルの化学製品なので着た瞬間ヒヤっとしますが、うちのはんてんは裏地も綿なのでそれがなく、布団を着ているようだと言っていただけます。静電気が起きにくいのも大きいですね」
宮田織物で働く従業員は、現在8割の方が女性です。そのため結婚や出産で退職されることが多くありました。そこで、産休や育休といった制度を積極的に活用してもらうことで、長く働き続けられる環境を整備し、2017年には雇用管理改善企業・職場表彰を受賞しています。
さらに縫製ラインでは、16人のベトナムの方が活躍されていて、外国人の採用にも積極的に取り組まれています。
「今、短時間正社員採用などの制度を取り入れて、例えば産休に入った後でも復帰しやすい制度を作ったりしたことを県の方から表彰いただきました。もちろんまだできてない部分が多いんですが、ひとりひとりが働きやすい会社を作りたいと思っています」
これからも日本のものづくりは厳しい状況にありますが、今後宮田織物のものづくりはどうなっていくのでしょうか。
「一つはものづくりを発信していきたいです。ものづくりはなかなか環境も厳しいけど、いい仕事だよってことをうちで働いてるみんなにも実感してもらいたいし、周りにも広げていきたいです。伝統を守っていくこともですが、まずはうちの会社のひとりひとりが主人公になれるようにしたいです」
「経営理念に『一隅を照らす』という言葉があります。『あなたはあなたの置かれた場所や立場でベストを尽くして照らしてください。あなたが光ればあなたのお隣も光ります。一人一つの光は小さくとも集まれば大きくなって、町や社会や日本や地球を照らします。ひとりひとりにスポットがあたる会社にしたいなと思っています」
「あともう一つ、今は、婦人服とはんてんと布地、そして新しくハオリができましたが、柱をもう一つ欲しいなというのはありますけど、まだ模索中です。うちはスタッフがいい会社なので、みんなで200年企業を目指していきたいなと思います」
宮田織物のしごと展
日時:2019年1月19日(土)~31日(木)
会場:東向島珈琲店(東京都墨田区東向島1-34-7)
・創業106年の老舗織物メーカー 宮田織物
・久留米絣の織元から一貫生産へ
・この会社もこの仕事も好き
・若手が活躍するためにできること
・何をやるかではなく誰とやるか
・何年経っても毎日が試行錯誤
・自分が着たいと思う服を作る
・作るのも着るのも気持ちの良い服
・オリジナルはんてんが完成